延宝3年(1675年)当寺は愛知郡高針村〈現:名東区〉に移り、同年名古屋南小川町妙蓮寺の末寺となり、のちに中区古渡町6丁目の現在地に移り、亨保12年(1727年)本堂を新築しました。明治15年(1882年)に小湊誕生寺〈千葉県鴨川市、日蓮聖人御生誕地〉の末寺となり紫金襴跡十七等となりました。惜しくも明治45年に火災にあい、本堂・日天子堂・書院および庫裡など殆どの建物を消失しました。翌大正2年、遠立院日昇上人は遷化し、翌年、川瀬日達上人が19世に、翌々年には開道山善進寺住職の服部潮弁上人が20世となりました。潮弁上人は鋭意寺門の復興に尽力し大正6年に本堂が落慶。代わって神奈川県小田原市延清の妙了寺住職、中島潮海上人が第21世の法灯を継承し昭和8年には本堂の荘厳、書院・庫裡などを新築し、寺観を一新しました。潮海上人は昭和18年1月に遷化しましたが先代近藤潮康上人は、昭和16年3月から副住職となり寺務を司り、昭和18年4月に住職に継承されました。。
太平洋戦争の最中、昭和20年3月13日の空襲により堂宇一切が灰燼に帰し、檀家のおよそ8割も戦災に遭われています。同年10月、焼け跡に10坪のバラックを建立し祖像を奉安しました。4カ年を経て24年、寺有財産のほとんどを処分し財源に当て、本堂の建築を起工しました。25年には間口5間・奥行き7間の本堂が完成。続いて28年、庫裡を半ば完成、33年に玄関等を含めて落成しました。34年には伊勢湾台風により、本堂・庫裡に損傷を受けるも修繕し翌35年11月、本堂庫裡落慶大法要を身延山法主藤井日静猊下親修のもとに厳修しました。そして、昭和55年4月20日には宗祖第七百遠忌・天童音楽大法要が盛大に執り行われました。昭和56年3月、第23世に近藤潮昭上人が法燈継承され山門護持に遭進されてきましたが、戦後建立された本堂も老朽化が広範囲に亘り、近年の少子化、墓地継承の諸問題に伴い、平成24年度より本堂解体・再建事業に着手し、平成26年6月に落成しました。
明治45年の火災で消失した日天子堂に奉安してあった日天子御尊像(大宝光日天子)は、日蓮聖人から熱田市場町の竹田弥右衛門に授与された像と伝えられています。日天子は、太陽を神格化したもので、仏教の十二天のひとつであり、日蓮宗では諸天善神として法華経信仰者の守護神とされています。往時の当山の日天子御祭礼は1月・5月・9月の15日に盛大に行われ、大変にぎわいました。
当時は名古屋と熱田を結ぶ本町通り〈今は山王通以南、伏見通に合流〉の東にあり、名古屋のわらべ歌に「一の鳥居、二の鳥居、山王さま、四間じょ、御坊さま、六角堂、七面さま、八幡さま、休玄寺、東輪寺」と唄われています。